冬には針供養がある。服飾専門学校の生徒たちが使っていた針を豆腐に刺し、供養する。折れたり、錆びついたりして使えなくなった針。最後は柔らかい床についてゆっくりと眠ってほしい。そんな、感謝の日だ。 テレビを見ながら毛布を繕っている。縁のほつれがどうにも気になるから。ほつれの前後をついっとまつり、針の錆を無理に通してしめていく。きつく織られた狭い布目に無理を言い、金属の針がキュ、キュ、と音を立てて裂き通る。気を抜くと指に刺さって恐ろしいので絶対に目は離さない。 ひと針ずつそれをやって、骨は折れても針は折れるなと集中すると本当に疲れてしまう。数針ごとにため息をついて、だだ広い自分の毛布の端っこをちまちまいつまで縫い付けねばならんのかと、途方に暮れる。 この針は何年我が家にいるだろう。針と糸、洋服についていたボタンなどが適当な菓子箱に詰められている。針山はどこからか持ってきたらしい。きっと母の仕業であるが、この質感は百円均一だろうと思う。このあまりの煩雑さにさすがに整えたのだろう。 毛布は結構長いはずだ。分厚い暖かな毛布は子供の頃から確かにここにあった。しかし模様は綺麗に残り、縁のほつれ程度で済んでいるのだから、上物なのだと思う。 針よ、腹の錆びれた我が家の針。君はいつからここにいる。ごく稀にしか使われず、目立ってありがたいとも思われないから供養もされない。 とたん、寂しくなってしまった。菓子箱の中は甘い香りがするだろうか。誰も手に取らず、仕事のできないこの針は、自分を哀れな針だと思うだろうか。こちらとしてはたまにこうして繕い物をしているし、服やバッグを作らなくてもその価値は変わらないだろうし、うーん、針よ、君はこの家をどう思うだろうか。 「でも、うちはあんたのこといつも使ってるよ」 そう。この家には縫い針が、この針と錆びてない針の二本しかない。それで事足りていた。錆びてない方を使えばいいだけなのだ。ただ、なぜか、錆びた方を手に取ってしまう。 また毛布を縫い進める。この針の穴はちょうどいい大きさで、糸を通すのも気負うことはない。糸通しももしかしたら使ったことがないかもしれない。そうだ、この針は自分にとって良い針だ。使いやすい針だ。錆びたのも、きっとたくさん触れられたからだ。 そう思うとなんだか可愛らしく見えてきて、キュッキュと鳴るのも楽しそうに聞こえてくる。錆びに引っかかって通りづらいだけなのに、手間のかかる子ほど可愛いだなどと妙なフィルターがかかる。ほつれもあと少し、調子が良い。道具が良いとこうも早く仕事が片付くものなのか。改めて良いことを知った。 玉留めをしてよく見直す。毛布の縁は綺麗に縫い込まれ、今夜からはぐっすり眠れそうだ。針山の針を蓋が閉まるように整えたら、その菓子箱の乱雑さが目に余るように思えてきた。これは確か数年前の盆に母の兄、つまり自分の伯父が持ってきたもので、クッキーとチョコレート、パウンドケーキの詰め合わせであった。紙の箱だが強度はあり、このようにみちみちに端切れを詰め込まれていても無事である。茶色地に白い花模様、総柄だがうるさくなく、高級洋菓子のプライドをしっかり守ったものだった。 それが今ではこれである。なんだか申し訳がない。ちょっとこう、端切れの束をなんとなく畳んでみてはどうだろうか。 端切れは細々様々あり、こんなものでも再利用できるのだろうかと疑問に思うほど小さなものもあった。一センチメートル四方ほどのそれは猫の耳部分のみがちょこんとポップに描いてあり、ここだけ残しておくなんて逆に難しいだろうと思った。しかし可愛いからとっておこう。 畳み直すと嵩は減り、無事に箱に納まる。次にこの箱を開けるのはいつになるだろう。供養にはまだ早い、少し休んでまた自分らと働いてほしい。