図書館はとても多くの村町にあり、蔵書や規模の違いはあれど、利用者に安らぎと教養を与えてくれる。静かに読書をし、心の中の器を満たす場所。ここで働く佐藤みちるは幼い頃からこの図書館を大切に思っていた。  この図書館は今年六十周年を迎え、六月に記念式典が行われる。開館から多くの人に愛されて来たが、電子書籍の普及などから利用者は徐々に減り、それでも地元民の憩いの場としてこの空間は大いに機能していた。 「やばいっ、寝坊だ!」  三月半ばのある日、みちるは式典の打ち合わせのため車を走らせた。会議室のセッティングもしたかったのに完全に寝過ごして悔しい。到着するや否や大きなトートバッグをよいしょと背負って入り口へ。打ち合わせは十時から。今は八時四十五分。セーフ! みちるが図書館へ入ると、同僚に声をかけられた。 「佐藤さん、おはようございます。すみません、会議室の準備全然です! あと式典の挨拶を読む方は立花はやとさんと、荒川綾花さんのお二人になったみたいです」  立花はやとは高校生、荒川綾花はご高齢で二人ともこの図書館の利用者だ。みちるも昔からよく知る人らで、直接ハレの日の挨拶をと依頼し、快く受けていただけた。  十時少し前に荒川も到着した。グレーヘアの背筋の伸びた女性で今日はスーツ姿。硬い空気を想像していたようで、みちるの顔を見てほっと笑顔になった。  二時間にわたる打ち合わせが終わり、みちるは立花と荒川にランチに行こうと声をかけた。 「ここのパン全部美味しいんですよ〜、ぜひたくさん食べて下さい!」  併設のカフェは開放的で、日差しが良く入る作りになっている。窓際の席が空いていた。二人とも初来店のようで楽しげだ。 「わぁ、ここ気になってたんです。一人だとなかなか……ありがとうございます」  立花は中学生の頃引っ越してきて、ゴールデンウィーク中にクラスメイトとここへ来てよく話したこと、受験時も学校や自習室より、この図書館で勉強する方が好きだったことを話してくれた。切れ長の目を細め、オレンジジュースを飲みながら笑う。 「部活引退してからは家かここかみたいな感じしてました。張り紙とかがかわいくて、めっちゃ息抜きになるんですよね」  それはありがたい。みちるは涙を拭く所作で笑いを誘う。しかしこれは職員が一番嬉しい瞬間でもある。張り紙や展示から興味を持って本を借りてくれる、そういった自主的な興味への流れを大切にしていたから。 「荒川さんは、結構図書館歴長いですよね。私がここへ来た時はもう、貸出履歴がすごかったから!」  荒川はショートヘアを耳にかけ、あら、と恥ずかしそうに返事をする。先ほど飲んだコーヒーで眼鏡が少し曇っている。 「実は私……ここの建物と同い年でして……。なんだかすごくおばあちゃんで恥ずかしいんですけど、五十年くらい前に作文を書いたんですよ、図書館の」 「えっ! すげぇ! まじですか!」  立花の驚き様に店員がこちらを覗き込む。小さく謝り、みちるが改めて聞き直した。 「荒川さん、それ、本当に凄いことですよ。ずっと懇意にしてくださってありがとうございます! その作文ってまだ残ってたりしますか?」 「まさか! もう何度も引っ越したし……流石に捨てたと思います」 「えぇーっ、めっちゃ見たかったです。荒川さんの作文」  お代わりしてきます、と立花が残念そうに席を立つ。ふとそのテーブルに静かな時間が流れた。 「荒川さん、私、お二人に声をかけて良かったです。立花さんもたくさん本を借りててすごく素敵な人だし、荒川さんも、そんな逸話があったなんて」  大きな窓から入る光は暑いくらいで、ホットコーヒーはなかなか冷めなかった。驚いた荒川の顔ににこっと笑って、みちるは顔が綻ぶのを抑えられずにコーヒーカップを掻き回した。 「私、学生の頃荒川さんのこと見たことあるんです。読書する姿が美しくて楽しそうで、本好きなんだなってわかって、なんか勝手に負けたくなくて」  ようやく立花がもどってくる。 「ここのパンめっちゃ美味しいですね。いつも弁当なんですけど、ここめっちゃ美味い」  ほくほく顔の彼の手には、大量の惣菜パンが乗せられていた。  打ち合わせはその後も滞りなく進み、三人は挨拶の練習や調整のため、よくお喋りをした。    もう初夏である。つつじは終わり、紫陽花の群れがぐんぐん伸びている。  六月四日午前十時、図書館六十周年記念式典が開会した。みちると立花、荒川の三人は、図書館併設のホールの客席に着座している。  高校の制服を凛々しく着こなした立花は緊張しすぎてもはや眠たそうにしていた。 「そうねぇ、ここ暗いしね。私もきちんと話せるか不安だわ」  物々しい空気の中、開会宣言に始まり、館長、区長の挨拶、市長、県知事の祝辞朗読と続く。六代目となる現館長は、隣の公園に出ている露店を話題に出し客席の笑いを誘った。  一時間半後、ようやく担当者に呼ばれ立花と荒川は舞台裏へと向かう。みちるが手を振ると、固い表情のまま手を振り返した。  舞台上での立花ははきはきと、学生らしい声色で挨拶に臨む。いかにここが落ち着ける場所か、大切な場所であるかを語ってくれ、彼の力強い声に拍手も盛んだった。  次は荒川綾花さんです。アナウンスが鳴る。  荒川はやはり緊張が止まなかった。しかしせっかく選ばれたのだ、まずは原稿をしっかり読み上げよう。暗い舞台袖からスポットライトの真ん中へ。震える足を叱咤する。  立花とすれ違う時、強く背中を押す眼差しを彼から受けた。舞台上という慣れない場所への恐怖。これもまた新しい気持ちだ。ゆっくり息を吸い、吐く。  演台へ手を乗せ、遠くにみちるの姿を認める。そういえばあの作文に、私は何を書いただろうか。なぜかそんな思いが巡り、ふつふつと浮かんでは消える。ただ好きでそうしていただけなのに、こんなに熱く讃えてくれる人がいる。  本当に全部、この場所のおかげな気がしているよ。  息を大きく吸うと、荒川は少し楽しい気持ちになった。柔らかな声がマイクを通し、場内に響く。 「私とこの図書館とは、もう半世紀以上の付き合いがあります。私も今年六十歳で図書館と同い年です。それを知った時はまだ子供で、ただの図書館から仲良しのお友達になった様に感ぜられて嬉しかったことを覚えています。あれから私も街並みも大きく変わり、喜びも悲しみもありました。けれどここには、昔からある本の懐かしさ、新しい本を発見する楽しさをいつも感じられました。この図書館は私にとって親友です。今日はそのお返しができるかもしれないと思って来ました。五歳で初めて来た時から、これからもずっと親友であり続けたいと思っています。同じようにこの図書館にはずっと、街のみんなの良き友であって欲しいと思っています。ありがとうございました。二〇七六年六月四日、荒川綾花」

福岡市東図書館展示作品