私の旦那様は高名な小説家で、それゆえにご友人も多く、御宅へいらっしゃった際は私にたくさんの食事を作るよう言われます。私はもちろん女中ですから当然、貯蔵庫の食材なんかも引っ張り出して、ご友人らへ精一杯お振舞いいたします。 この日は蕪のあんかけ、ほうれん草と大豆の白和え、肴は焼きイカにつみれ汁、飯は酒に合うように味の濃い香の物をつけました。 旦那様は季節のものを好みますのでたいへんお喜びになり、にこにこと盃を傾けていきます。ご友人は、結城殿は良い女中を雇っていると仰り、その言葉に私は指をついてお礼を申し上げました。 しかしこんなにしょっちゅう客が押し寄せては、女中殿も大変でしょう。ご友人は笑いながら仰りました。 「なに、彼女は私が見初めた子だからな、優しくしているつもりですよ」 旦那様は困る私を背にこう仰り、その声がすこし涼しげだったのを、私は見過ごすことが出来ませんでした。 旦那様とご友人は日付の変わるまで楽しげに笑い合っていました。私は先に寝るように言われ、離れにある自室へ向かいます。 今晩は冷えると、昼間お隣の奥様が。そろそろ雪でも降るかしら、と私も笑っていました。離れまでの冷たい廊下を足袋で歩きながら、大根が切れたから明日は買いに行かなくては。それから春菊と、さつまいも、みかんもきっとあの調子では食べ切ってしまわれるだろうから、明日は大荷物になりそうな。と考えながら進みました。 私には四畳半があてがわれております。そこに、実家から持ってきた小紋、化粧棚、小さなつづらがあり、他はすべて旦那様がくださいました。実家から布団を持って行こうとすると、あまりにせんべい布団なもので、それは打ち直して、お前は我が家のものを使いなさい。とぶ厚いふかふかのお布団を一式お貸しくださり、さらに実家の布団を打ち直すための駄賃までくださったのです。両親は、娘が良い方に拾っていただけたと喜んで、私も少し、孝行が出来たように思えます。 押入れからその布団を取り出して、掛け布団の模様を暗がりの中眺めました。鶴が二羽、描かれて、天の川のような星々を散らしてあります。 足を差し込むと、まだひんやりと冷たいので、旦那様に湯たんぽを作るべきだったかしらと天井を見上げました。けれど旦那様のことだから、一度寝に行った私が帰ってくれば、叱りつけるに決まっています。早く寝ないと明日に響く、私のことは気にするなと、彼女はいつも私を労ってくださいます。 「……はぁ、明日のおみおつけは、具沢山にしなければ」 それが、うっかりものの私の、せめて出来得ることでした。 次の朝起床すると、もうご友人はお帰りになっていました。ご挨拶がいつも出来ず申し訳ないと旦那様にお伝えすると、へべれけだから覚えてないよと笑っていらっしゃいました。 朝は白飯とおみおつけ、小鉢がふたつと香の物、と決まっておりました。ただ、おみおつけの具材が多い場合は小鉢を少し減らさないと、腹が苦しいと仰るので、なかなか調整が難しく思います。 おみおつけの中には、里芋、だいこん、にんじん、生姜、ねぎを入れました。旦那様は薬味が多めに入っているのがお好みで、しかしあまり辛いと食べられないため、これも私の感覚でちょうどよくせねばなりませんでした。 食卓は小さく、私も一緒に食事を取ることを言い付けられています。 昨日の夜炊いた米をお櫃に入れておいてあります。それをねこまんまにするのが旦那様のお気に入りでした。しかしねこまんまは冷えた飯で作るのがいいと言って、炊き立ての際はお召し上がりになりません。そこで私は、なんとなく彼女がねこまんまを食べたいだろう頃合いを見計らい、こうして冷や飯を出しています。今日もまた、汁が里芋だと喜んだり、昨日はたくさん炊いたんだななどと仰っては、かつ節までかけていらっしゃいました。 「お、蕪漬けだ。いいね。あとどれほどあるの?」 「蕪はあとみっつほど漬けました。今年は安いのでしばらく作れます」 それは嬉しい。実も皮も葉も美味しいからな。と、旦那様はお笑いになります。他の食事もよく進んでおられます。美味しいと言っていただけるのも、何も言わずともよくお召し上がりになるのも、私からしてみればたいそうによく褒めていただいていると存じますので、さて、本日もがんばろうと思えます。 旦那様は朝食後、コーヒーを召し上がります。なんでも食後に飲むと目が覚めて良いとのことで、私も淹れ方を教わりました。その後書斎にてお仕事をされますが、この際は決して部屋に入ってはいけないし、話しかけてもいけないと言われています。たといお客様がいらっしゃっても、言付けを預かるよう言われています。それは旦那様のお仕事の都合上、仕方のないことであり、彼女の素敵な作品を拝見すれば、さもありなんといったところです。 旦那様のお仕事中、私は、正直に申し上げますと自由時間となっています。掃除、洗濯、買い物を済ませれば昼食を作り、その後旦那様のお仕事のお手伝いをしたり、町内会の会合に出たり、お客様のご用件を預かったりいたします。お仕事の話は私には難しく、帳面を取るのが難儀な時もありますが、旦那様の名誉を思えば情けなく、反省のし通しです。 「愛ちゃん、なにか食べるものないかい」 昼餉にはまだ少しあると思い油断していると、旦那様が部屋から降りていらっしゃいました。 「えっ! 申し訳ございません、一寸探して参ります!」 「いえ、なかったらいいんだけど、甘いもの……おはぎとか、買ってこようかなあ。愛ちゃんも行く? 行こうか」 私は急いで財布と風呂敷を持って支度をしました。 これから行く菓子屋は旦那様のお気に入りの二店舗で、ひとつはみたらし団子、ひとつはおはぎが美味しいと言って贔屓にしています。おそらく旦那様の頭の中にはおはぎの十勝屋があるのでしょうが、きっと考えあぐねて両方とも行くのでしょう。今日は寒くて、けれどあの菓子屋らはきちんとした店なので、私は一張羅の羽織と襟巻きを着ました。旦那様はどてら姿でいいと言って聞かず、せめてと手袋、襟巻きをつけていただきました。 街は賑わっていて、年末の忙しさが際立っていました。そういえば正月餅も買わなければいけないと思い、旦那様に進言します。 「旦那様、ちょうど今の時間だと、大福も突き上がる頃ではないでしょうか」 「大福! 気が利いてるね。じゃあ千葉屋にしよう」 旦那様は目を輝かせ、私たちは千葉屋へ向かいました。 千葉屋はやはり餅がつきあがったばかりのようで、童や女性客で賑わっていました。豆大福、白大福、蓬は季節柄ありませんでしたが、代わりに蒸した栗を丸ごと入れた栗大福があり、それを見た旦那様は、栗は外せないとつぶやいては、どれをいくつ買うかで悩んでいるようでした。それはまるで推理小説の中の探偵さんのように、指先で顎をさすりながら、反対側の手でそろばんを弾いておられます。そこへ私は、鍵となる情報をひとつお入れしました。 「旦那様、わたくし、正月餅を買わなくてはいけません。それと、ここの豆大福は塩が効いて美味しいと以前に仰ってましたよ」 旦那様はふむ、と言って、私にはここで待つよう仰いました。 人混みが苦手なのに旦那様はひとりで行ってしまわれて、私は彼女の背中を目で追いました。目の前の数人の壁に阻まれて、一寸ずつ背伸びをしながら売り子に近づいていかれます。千葉屋の売り子さんは声の大きい女性で、旦那様を先生と言って慕っていらっしゃるので、うまいぐあいに見つけてくださればきっと買えると思うのですが、今日はあまりに人が多くてなかなかうまくいかないみたいです。 私も旦那様のことを見失ってしまいそうで、遠巻きから背伸びをしたり屈んでみたりして彼女のお買い物を見守っていました。すると横から声がします。 「結城先生の女中さんじゃないですか。お買い物ですか」 それは旦那様の本を出版している編集者さんでした。いつもの茶色い背広に眼鏡、色を合わせた鞄を持っていらっしゃいました。 「あっ、編集さん、お世話になっております。いま大福を買いに来たんですが、結城がちょっと手間取っていまして」 それはそれはと彼女は笑って千葉屋の暖簾を見回している。ここは美味しくて家族も大好きだから、と続けて、そのまま店頭へ向かってしまわれました。 見ると編集さんは、旦那様の肩をとんと叩き、ご自身を指差してから、二人して笑い合っています。どうやら編集さんがまとめて買ってくださるのではないかと、私はほんの少し、期待しました。 しばらくすると、旦那様と編集さん、二人揃って帰っておいでになり、それぞれの手元には大きな紙袋が下がっていました。 「買ってもらっちゃった」 「まぁ……編集さん、おありがとうございます」 編集さんは旦那様とお仕事の話があるとのことで、そのまま列をなして帰宅しました。 客間へお二人をお通しし、茶を淹れます。 お客様には、有田焼の瑠璃色の椀と決めていて、改めて欠けがないか確認してから、器を温めます。 茶菓子に先ほど買った大福を。袋を開くと、栗大福が四つ、豆大福が二つ、正月餅が十でした。買いすぎだわとくすりときて、栗大福を一つずつ皿に盛り、客間へ向かいます。 「失礼いたします、お茶をお持ちしました」 おいで、と旦那様のお声を聞き、中へ。 「やあ、ありがとう」 お二人は待ちきれないというご様子で大福をお召しになり、旦那様は、愛子はやはり気が利いてるね。と私をお褒めになりました。 「豆大福と栗大福で悩んだだろう? でも豆は君と食べたかったから、栗を持ってきてくれてよかったよ」 旦那様は茶をぐいっと一飲みに、大福も丸呑みでもするかのようにあっという間に食べてしまわれました。 これは一本取られたなと編集さんもご機嫌です。 私は照れ臭くて、えへ、と笑って客間をあとにしました。 それから日が暮れる頃までお二人は話しておられました。先日小説を出してからまだ一年も経っておらず、通常なら次回作を、書き始めるならまだしももう出そうだなんてなかなか考えられるものではありません。 旦那様は、短編のお仕事なら良いのですが、長期に作品に取りかかると、憑き物に憑かれたように一心不乱に書き始めます。飯だ風呂だと殴りつければ正気になってくださるものの、そんなことは、したくはありません。 構想を練るのには時間がかかるらしく、家の中や街をうろついているのですが、ひとたび見えてしまえばそれぎりです。その様子はもはや般若。筆の墨がカラカラに渇いても気付かないくらい、ただひたすらに書き殴るのです。 一昨年は大変でした。ろうそくが終わるからと寝かしつけ、しかし日が昇ると同時に血走った目で机に向かわれます。食事も喉を通らず、ねこまんまを冷えたままお召しになるのが関の山。 私は大きくため息をつきました。旦那様の作品は素晴らしい。それは無学な私にもわかることです。ですが、あのように寿命を削ぐような書き方は、女中といえども承服しかねるのです。 「おや、どうされましたかな。こんなところに座り込まれては冷えますよ」 見上げると編集さんがにこにことしておりました。 「あっ! 失礼いたしました、お話はお済みでしたか」 「ええ、先生は話のわかる人だから助かりますよ。またお邪魔しますので今日はこれで。大福ごちそうさまでした」 とんでもない。あの大福は編集さんに買っていただいたもの。ご自身でお買いになったものですので。心の中で平伏し、ぺこぺこと頭を下げる。後ろから旦那様も出ていらっしゃった。 「愛子、駅まで見送ってくるから」 「行ってらっしゃいませ」 さて、夕飯の支度を急いで済まさなければ。 旦那様は、片道五分ほどの駅へ編集さんをお見送りに行き、一時間後にご帰宅されました。助かった。用意のなかった台所が、魚の良い香りのする料亭となって主人を迎えることができます。 「ただいま。お、魚の匂いがするね」 旦那様は時折家事をお手伝いくださいます。ご機嫌な時、お腹が減った時。その両方が重なった時なんて、スキップしながら食器を出してくださるのです。怖いからやめていただきたいけれど、せっかくのご厚意を無にすることもできず、私は絹でも綿でも引き裂くような声が聞こえてこないかひやひやしながら味噌汁をかき回していました。 夕飯時、旦那様はたくあんを一つ口に入れて言いました。 「明日からまた小説書き始めるから、家のこと頼むね」 「え」 恐れていたことが現実になってしまいました。いえ、ろんとうはもっと取り乱しているのですが、これは文章なのできちんとしなければと思い、平静を装っています。本当は心臓が腹を突き破って飛び出ましたし、お味噌汁のお豆腐は落としました。飛び散った味噌汁が弾けたのは私の割烹着の上でした。それだけが唯一の救いです。 私は次に、聞かなくてはいけないことをきちんと声に出して聞き出します。 「ど、どれくらいの期間になりますでしょうか」 旦那様はあぁ、と考えて、そうだなぁ、ともったいぶって、確か頁が、とやきもきさせて、厚揚げを箸で切り分けて、笑います。 「半年ほどかなぁ」 もはや投了。半年もの長きにわたり、私はこの般若の身の回りを、なんの救いもなく、務めねばならない。 「は、はん……」 恐怖で声が出ない。 「連載だそうな。一年の連載で、まぁ、半年もあれば書き上がるだろう」 そ、そう言うことですか。一年が半年に縮んだのはありがたい。 「頼むね、愛ちゃん」 「は、はひ……」 私を頼りにしてくださっているとあらば、やるっきゃないのが女の道。 「しっかりおうちをお守りいたします……!」